俺のポストモダン理解


ネガティブ・エントリは「世界」を破壊する - Hopeless Homeless
http://d.hatena.ne.jp/akio71/20080816/p1

某所で、「ネガティブ・エントリは「世界」を破壊する」というブログエントリーを相当持ち上げたが、その理由はあのエントリーが「言葉」という物をポストモダン的な切り口で語っていたからだ。

ポストモダンというと、どこかで聞いた事は有るが、その定義は曖昧と言った感じの言葉かもしれない。俺もそうだった。
俺がポストモダンという言葉の定義を知ったのは、現代哲学の入門書を読んだときだ。元をたどれば思想系、人文系の言葉だと知ったのだが、ポストモダンと言う言葉は哲学に留まらず、文学、建築、音楽、芸術など幅広い分野で用いられている。

ポストモダンの「ポスト」は「その先の」という意味。つまりポストモダンとはモダンの先に有るものという事を表している。かなり抽象的な言葉だから幅広い範囲で用いられているのも納得できるだろう。モダン文学の先を行くのがポストモダン文学、モダン建築の先がポストモダン建築と言った具合だ。

当然全ての分野に当てはまる物ではないが、俺のポストモダン理解は「統治」と関係している。民を治めるあの統治だ。
俺の中では、統治権力が一極集中している状態がポストモダン以前、自律分散している状態がポストモダンだ。

一例として政治的統治の歴史を見てみると(というのも、政治だけが統治の例ではないのだが、それは後述)、民をまとめて来た側には、王がいて、貴族、教会、金持ち、将軍、独裁者、立憲君主制の君主、中国共産党などが有るが、これらはどれも権力が一カ所に集中しているタイプの統治機構だ。
これに対して、議会制民主主義は全ての民意の合意によって統治機構が形作られているという点において、それ以前の物と一線を画す。
前者がポストモダン以前の政治的統治、後者がポストモダン的な政治的統治だ。

ポストモダン以前のポイントは、一点に権力が集中していて、それを頂点にした構造を持っている事だ。つまり、その一点を頂点とした規律が有り、それに基づいた階層が有ると言う事。
ポストモダンの場合は、権力は必ずしも一点に集中している必要は無い。アメリカ合衆国は、州に政治がまかされているので地理的に分散している一例だし、変わった例では、経済なら経済、教育なら教育、外交なら外交、警察なら警察と、統治権力を分野事に分散して、そのネットワークによって国を形作ると言う統治モデルも有る。そのネットワークには、環境保護や、社会保障なども入って来るだろう。

ここまでが政治的統治の例だが、他にわかりやすい例として、電話網とインターネット網の違いもモダン型とポストモダン型の例として上げられる。
電話網は、それぞれの国の電話会社によって電話線全てが一元管理されているネットワークだが、インターネットは違う。

インターネットは、世界中に有るインターネットに直接繋がったコンピュータが、ネット上を流れるデータをバケツリレーしているだけのネットワークで、全体の管理元というのは驚くべき事に存在しない。なんでバケツリレーでネットワークが保たれているかと言うと、「俺は、君のコンピュータの向こうに有るコンピュータと通信したいんで、そっちにデータ流して。代わりに俺は君のコンピュータからのデータを俺の後ろに有るコンピュータに流すから。」という2者間の利益が一致したたらい回しのネットワークが、世界中に張り巡らされているから。

容易に想像がつくけど、電話線網は維持に膨大なお金が掛かるのに対して、インターネットはものすごく低コストで実現できる。一時前の国際電話がものすごく高額だったのに対して、Skypeが無料なのはそれが理由だ。

そして、インターネット網によって実現された、誰もが情報を発信できる 「インターネット」も、メディア論においてポストモダン的だ。
インターネット以前は、限定された出版社、新聞社、放送局によって世論が形作られて来たが、今では誰もがブログなどを通じて、世論形成に簡単に参加できる。
大手メディアは情報統制に欠かせない統治の手段だったが、インターネットがそれを見事に破壊している。
中国では未だにGoogleで検索できる結果が検閲され、制限されていると言うことからも、インターネットが如何に中国共産党の脅威となっているかがわかるだろう。


今上げて来たいくつかの例に共通して言える事は、ポストモダン的な状況は、分散しすぎてしまって、全体を一元的に完全に統治する術がもはや無いと言う事だ。
そして、モダンからポストモダンへの流れは不可逆に進行して、もとに戻る事は無いというのも重要なポイントだ。
ポストモダンを超える、ポストポストモダンは何かという議論もあるが、ポストモダンは思想的、政治的、社会的な状況の最終形態だろうとも言われている。

ポストモダン的な状況では、個人の自立が求められる。何故なら、自立した個人のネットワークが社会を形作るからだ。
ポストモダンは、「大きな物語の終焉」と言われる事が有る。

士農工商のはっきりしていた時代は、自分のやるべき事は親の後を継ぐ事だとはっきりしていたし、戦後日本で理想の人生として語られていた「良い学校、良い会社、良い人生」という生き方のモデルも、先人の作ったレールに乗って頑張れば良い人生を生きられるという大きな物語が有った。そしてその大きな物語の中での立ち位置を見つけられる人が、自立した人だと見なされた。

しかし、時代は変わりつつ有って、もはや大きな物語の意義は無くなりつつ有る。それに伴って、自立の定義も変わりつつ有る。自分で自分の物語を設定して、その中に自分の目標を見いだし、それに向かって進んでいる人が、自立した人と見なされるようになる。
「自分のやりたい事」という事が語られるようになったのは、まさに大きな物語がもはや機能しなくなってきており、個人個人に自立が求められているからだ。

ここで、自分の物語を見いだすに当たって、生き方の「コンセプト」という事の重要性が出て来るのだが、その話をするとすごく長くなるので、ここでは辞めておこう。


そして最後に、最初の話に戻るんだが、昨日の日記で上げたブログエントリーが何故ポストモダン的な切り口を持っているかと言うと、我々の感じる感情さえも無意識に社会的に規定されているのを指摘している点だ。

> 自分が所属する社会の常識や、「あたりまえとされていること」で形作られた「世界」では、うれしいと思うべきこと、悲しむべきこと、憤りを感ずるべきことは、規定されている。枠組みに外れた感情は、違和感としてくずぶり続けるけれど、「世界」に、「世の中」に、そんなことはとるにたらない、どうでもいいことだと決められるので、言葉にできない。

ここで指摘されている、とるに足らない、どうでもいい事が、ある人にとってはものすごく重要で欠かせない感覚だと言う事がどれほど有る事か。
このエントリーの秀逸な点は、その社会の中にあるその必然的な孤独さを、友達とのコミュニケーションによって乗り越えて行く事が出来ると指摘している所だ。
自立した個人の連携によって、社会的に規定された感情文脈を乗り越えて行くと言うのは、まさにポストモダン的だ。


社会で規定された文脈上では憚られて語られない、自分だけのその重要な感情に、一緒に共感して嘆いてくれる人、一緒に喜んでくれる人、一緒に怒ってくれる人、そう言う人達の尊さを、このブログエントリーによって改めて認識した。当たり前の事かもしれないけど、本当に改めてそう思ったのだ。