ポスト「ブログで自滅する人」論

 「ブログで自滅する人」という記事が4回に渡ってデジタルアリーナ(日経BP)に掲載された。この中では、2チャンネルで発生する「祭り」が世間そのものであると述べられている。そして祭られないための対策も記されている。ブロッガーは自分の書く事に慎重になれと。

http://arena.nikkeibp.co.jp/col/20051101/114110/

 ここから導き出されるブロゴスフィアの未来像は監視社会の様相を呈する。これは自由な言論空間としてのBlogにとって危機的状況である。ITインフラの成熟によって生まれた、誰もが自由に参加し議論ができるインフラとしてのBlog。これからその可能性が試されようとする中で、早くもその前提が社会的に崩されようとしているようにも見える。ブロッガーは「祭り」に慎重になる作法をネットリテラシーとして受け入れるべきなのか。Blogに未来は無いのか。その疑問に基づいてブロッガーを初めとするネット参加者達の取るべき方向性について探った。

  • 世間の目という抑止力を前提とする社会、日本


 「ブログで自滅する人」の中では、主題は2チャンネルでの「祭り」とブロッガーの間の問題として述べられている。しかし、問題の本質はネット上に限られたことではない。オフラインの世界にこの状況を移せば、世間の目とその中を生きる一個人という関係に置き換えることが出来る。「祭り」と「世間」は、どちらも社会構成員の意思の総体をからなり立つ抑止力となりうるし、ブロッガーは公の場で意見を述べる一個人である。そういう意味で、「祭り」を「世間」と例えた点において、デジタルアリーナのこの文章は正しい。私が違和感を感じたのは、そのような状況において個人がそれに怯えて慎重に生きる事を作法として受け入れるべきなのかどうかという点についてである。

 そもそも何故ブロッガーは、公の場所に自分の主張を記すのか。それは自分の信じる考えが社会に広く伝わり議論されることで、世の中の状況を少しでも良い方向に変えられる可能性を信じているからではないか。それはBlogの秘める可能性の一つであるはずだ。であるとするならば、周りの目を気にして慎重になり自分の主張を引っ込めるというのはそのBlogの可能性を殺すことと同じである。そのような作法が一般となり広がれば、自由な言論空間としてのBlogは死んだも同然である。

 日本という社会は、世間の目という抑止力を大前提として成り立っている社会である。それはその抑止力が有効に働くために社会の秩序が保たれているという事を意味しているのではない。各個人がそれぞれに、その世間の目の見つめる方向性を仮定し、自分の善悪の判断が仮定された世間のそれと一致しているかどうかで自分が安心できるかどうかが決まる装置として、その仮定された抑止力が働いているということを意味している。世間の目は自分のための精神安定剤なのだ。だから日本人は常に他人の目を気にしながら、周りに合わせて生きようとするという傾向を持ってしまう。実際には周りからそのようなことは期待されていない事も大いにして有るのに。

  • 問題は、安心の拠り所が自分の外側にあることである。


 なぜ問題か。地域共同体空洞化以前の日本であれば、それは問題にはならなかった。問題にならないどころか善悪の違いが皆に共有されていたため、仮定された世間というものの個人ごとのぶれが小さく、精神的安定を求めてそれに合わせて生きようとする作法は有効にすら働いていた。皆がそうすることによって共同体が円滑に回っていったのである。

 しかし地域共同体空洞化以後の社会においては、価値観の多様化によって、仮定される世間が個人ごとに異なり、社会に対する期待に齟齬が生じ、信頼の根拠が喪失し、漠然とした不安が広がるという状況に至っている。そんな中で、自分の安心の拠り所が自分の中に見つけ出せないという状況が問題となることは、火を見るより明らかであろう。

 今必用とされていることは、世間という幻想と決別し、自力で多様化する価値観に立ち向かい、自分で決断し、困難は自力で解決し、どんな状況でも自分で何とか対処できるという自己信頼を獲得するという事だ。そうすることで初めて、社会的に自立して生きていけるのだ。

 しかしその自立する術を知らない者はどうか。自分で解消できない不安感に対して、相互監視という形の解決法で対処する方向へ流れていくのではないだろうか。そして私には、その延長線上に「祭り」を擁護するという価値観があるように思えて仕方が無い。それこそが、私の感じた違和感の原因だ。

  • 今、重要なこと。


 各人は、まず自分の外側に安心感を求めることをやめなければいけない。そして、自分が自立できた上で、自立している人を見つけた時、その人に対する信頼感が生まれるだろう。そうした形の信頼のネットワークが社会全体に広がった時に初めて近代市民社会と呼ぶにふさわしい社会が成立するのではないだろうか?

その社会における「信頼」の構造は、共同体空洞化以前に仮定されていた世間に対する「信頼」とは全く違ったものである事がわかるだろう。

  • Blog とは、そうして自立した人間同士を繋ぐためのディスカッションツールである。


 ディスカッションツールとしてのBlogは、自立を前提とした信頼感があって始めて有効に機能する構造をもっているように思われる。そして、ブログを初めとしたネット上でのソーシャルネットワークが未来を切り開く可能性は、暗黙的に仮定された信頼の上に成り立った社会ではなく、意識的に獲得された信頼の上に成り立った社会にのみ開かれているだろう。

 そうして自立したブロッガーたちの信頼のネットワークが、ネット上でのディスカッションを通じて広がっていくことで、相互監視などの負の信頼基盤に依存しない社会を切り開いていく事を願ってやまない。<参考>
煩悩是道場 「ブログで自滅する人」は何故書かれたか
http://d.hatena.ne.jp/ululun/20051112/1131765943